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ELM・神性とカルマ:包括的な考察

すべては、どのように始まったのでしょうか?

どうして人類は苦しみや誤りを経験するようになったのでしょうか?

なぜマスターたちの壮大な教えの数々は、それを必要とする人たちに隠されているのでしょうか?

 

私たちの本質は、光です。

私たちはそのように創造されたのです。

私たちは「神の姿を象って」光から創造されました。

それこそが、私たちの本質です。

 

私たちは、光であり純粋であり知性そのものでした。制限や歪みからは、一切影響を受けることはありませんでした。

「神の姿を象って」という意味は、神の永遠のフォースの意識と姿を象ったということです。

 

それは、本来人類は、無限の人生を楽しんでいくために創造されたことを意味しています。

しかしながら、現在に至る道筋のどこかで、私たちは間違いを犯してしまいました。

私たち人類は、本来は楽しむために創造された楽園を失ってしまったのです。

 

人類が創造された当初、私たちは望むことはどんなことでも可能であるといわれていました。神の創造の庭全体が、人類の財産であり遊び場でした。

神の創造の庭には、すべての能力や可能性がありました。

それを使うための一切の制限もありませんでした。

望んだことは何でもできました。

 

人類は自由であり、この宇宙は楽しむためのものでした。

それは太古の人たちが、レムリアと呼んだ楽園のことです。

 

しかし、神は私たちに、ある果実だけは食べてはいけないと警告していました。

それは人類にとっての禁断の果実でした。

ここでいう果実とはこの宇宙における人間の行動による必然的な結果を意味しています。

禁断の果実とは、善と悪を味わうことによって生じる結果のことでした。

 

善と悪の観念というものは、私たちのメンタル的な判断に過ぎません。

それは、私たちの神聖なハートから生じたものではないのです。

神が人類に善と悪の観念を味わってはいけないと言った理由はただ一つです。

それは、もし人類がその果実を味わってしまうとシンプルにナチュラルにそのままの経験を楽しむことをやめてしまい、自分たちの行動について善であるか悪であるかという判断を始めてしまい、そこら様々なくるしみや困難が生じるからでした。

 

一度善と悪の果実を味わってしまうと、私たち自身のマインドから生じた結果というものを、刈り取ることになってしまいます。

しかし、人類は、その禁断の果実を味わうように誘惑されてしまい、その判断の果実を食してしまいました。

その時以来、カルマという結果が生じるようになってしまったのです。

 

禁断の果実を食した結果、人類はどうなったのでしょうか?人類は多様な創造物を観念によって分断し始めるようになりました。

日常の経験を善と悪に分類するようになってしまい、ある経験は好んで受け入れるようになり、その他の経験は無視するようになりました。

結果として無知と盲目が生じるようになりました。

 

無知や盲目が生じることによって、人類は無力感や恐怖を味わうようになりました。

無力感や恐怖は苦しみを作りだします。

人類は本来、宇宙のすべてを見渡し、すべてを理解し、すべてを経験するために創造されました。

盲目や無知を味わうために創造されたわけではないのです。

 

善と悪の概念が生じた瞬間から、創造の半分が無視されて抑圧されるようになったのです。

私たちは、自分が望まないものからは目を背けようとします。

それによって、恥の観念が生じました。

創造の半分は無視されているのです。

私たちの感覚の半分は無視されているのです。

 

人類は、真の願望や必要性などの、自分が本来持っている感覚に対してまでも、盲目的で無知になってしまいました。

判断と苦しみですべてを色付けしてみるようになってしまい、物事をありのままに見る能力を失ってしまいました。

人類は楽園をうしなってしまったのです。

 

そして再びそれを取り戻したいと感じているのです。

日常の人生に色付けすることによって生じる幻想というものは、現実とは程遠いものです。

無知がゆえに行ってしまった行動というものは、どこまでも私たちのあとを追ってきます。

すべての行動に対して、それに反応するさらなる行動が生じます。

周りの世界に対して盲目的でいることは、現実が次から次へとさらなる結果を作り続けることを、防げることはできないのです。

 

科学者によると、現在の人類は本来持っているはずの能力のわずか4%~10%しか活用していないそうです。

それでは、私たちはわずか4%の存在ということになってしまいます。

本来いかなる制限もないように創造されたはずの人類は、盲目や無知を選択してしまいました。

 

私たちが本質的に持っているはずの能力の90%は覆いをかけられたまま制限されているのです。

私たちは、本来持っているはずの能力のわずか10%以下で存在しています。

だからといって、100%機能するような新しい人類の雛形と交換できるわけではありません。

 

私の師(ボブの師匠)であるマハリシは「啓発した状態でのみ、私たちは本来の人生を生きることができる」とよく言っていました。

啓発とは人生における自然な状態です。

それは、人生の充足した状態であり完全に目覚めた人生です。

それに劣るどんな状態も、自然な状態ではないのです。

 

そう考えると、現在人類が普通に送っている人生は、何かが間違っていると感じてきます。

そして人生にはもっと愛が込められるべきだと感じているのです。

私たちは皆、本来の人生はいまの状況と異なるもので、より愛に満ちているべきだと感じています。

 

なぜ人間は、お互いを傷つけあってしまうのか誰も分かっていません。

誰かを傷つけようと意図しているものなど誰もいないのですが、物事を明晰に見ることができないために結果として誰かを傷つけてしまうのです。

無知や盲目もまた、人類のカルマです。

無知がカルマを作り、カルマが無知を作り出します。

 

サンスクリッド語では、カルマという言語は行動を意味します。

行動とは、ある事象が動きの途上にあるということです。

すべての行動と願望は、常に動き続けています。

思考が生じた瞬間に、その思考が持つ振動が波を作り出し、行動が開始されるのです。

 

本質的には、すべての思考は神の願望の波として生じるものです。

元々すべての思考は、根源から生じた神の意識でした。

その様な思考は、純粋で宇宙全体との調和がとれています。

 

神の意識は宇宙全体の行為です。私たち個人は神の大海から生じた一つ一つの波です。根本的には、あらゆる思考は神から生じたものです。その元々の波動は、宇宙と万物との調和とバランスがとれていて適切なものでした。

 

しかしながら、神の本質から離れていくにしたがって、人類の本質というものが、歪められてきました。

私たちがそれを表現する機会が与えられたときにはすでに、いままで抑圧してきた様々な堆積物が思考に付着してしまいました。

 

その滞留物は、私たちが抑圧してきたものだけではなく、私たちの先祖が代々抑圧してきたものも含まれているのです。

 

私たちの肉体のDNAには、先祖たちが抑圧してきた無数の思考や願望でいっぱいになっています。

それは、数百万年にわたって世代から世代へと受け継がれてきたものです。

神の純粋な思考や意図の光は、私たちのマインド・知覚・微細な体・そしてこの密度の高い物理的肉体という歪められたフィルターを通過することによって、外側へと投影されます。

 

この肉体は、レンズが汚れていて綺麗な映像を投射することができないプロジェクターのようなものです。

そのため、乱雑で歪んだ映像しか見ることができません。

宇宙の創造以来、本来純粋な光は誇りを纏うようになってきたのです。

 

私たちが何かを無視しようとしたとしても、視界から何かを遠ざけようとしても、それがどこに行くことはありません。

それはただ単に傍らに退けられただけなのです。

神から生じた思考の50%は表現されますが、一方で残りの50%は不適切に判断されてしまい傍らによけられたままになっています。

私たちが独断で、神の思考を編集しているのです。

 

では傍らによけられた残り50%はどこに行くのでしょうか。

それは決して、そこから離れてどこか外側に環境へと去っていくわけではありません。

私たちの内側のどこかで溜まっているだけです。

思考や願望の未完了解決の埃のような粒子として、私たちの内側に溜まるだけなのです。

 

それをカルマと呼ぶのです。

次から次へとこの埃の粒子は蓄積されて、純粋な光は汚れていき、最終的には泥のように固まってしまいます。一度そうなってしまうと光は外側へと輝き出すことはありません。

この状態がまさに、私たちの現状なのです。

私たちは、ランプを覆う傘のような泥で遮られってしまった光のような状態です。

 

すべての微細な体(サトルボディ)を含む私たちの肉体は、数百万年の進化の過程のなかで何世代にもわたって蓄積された未完了で歪められた思考によって作られたランプの傘のようなものです。

 

まだまだ、カルマのことは続きますが今日はこれで終わりにしたいと思います。

PCの画面を見るのも疲れちゃって、残りはまた明日書きます。